すべった思い出を忘れたい
たまに自分が面白い人間であると思ってしまう時がある。ここでいう面白い人というのは人を笑わせることができる人のことである。
若手お笑い芸人の漫才や人気なYouTuberたちが面白いとされているのをみて、これくらいだったら自分もできると思ってしまうことがある。
あまり親しくない友人たちが大したことでもないことで笑っていると、こいつは面白くないやつだなと勝手に思い込んでしまうこともある。
自分は人と話す時にもっと面白いことを言いたいと考えていて、暇な時は身近な出来事でオチをつけて話すということを考えたりしている。
自分でもとびきり面白いとまでは思わないけれども、最後に締まりのある話をすることに意味があると思っていた。
浪人生活中に人と話すことは少ないが、先日偶然電車で高校時代の知り合いに会った。
そこで日頃の成果をみせようとオチのついた話をしようと試みた。
頭の中では相手を笑わせることができる内容だと思っていたけれども、自分が思っていた反応ではなかった。
笑いの価値観というものももちろんあると思う。
しかし僕が反省しているのは思うような反応を得ることができなかった自分が、せめてもの爪痕を残そうと終盤から話をあえて大げさに話そうとしたことである。
結果から言えばレッドカーペットの中笑いくらいの反応は得ることができたけど、これじゃあ自分の話を生かしきれてないと思う。
僕が思ったのはウケようとする気持ちが強すぎると面白くなくなるのではないのか と思った。
ウケようとする気持ちが強すぎるとどうしても相手が笑うことを言わなければならない。 それによって大げさに話をしたり、わざとらしい感じがどうしても出てしまう。あと必死な感じが出る。
自分も今回の件でかなり取り乱したし、その反省をブログに書くぐらい印象的な出来事だった。
自分の面白さの押し売りは自分が相手を笑わしたいという心からは離れてしまう。
万人に通用する面白さなんてごく僅かだと思う。
だから自分が面白いと思うことを芯を曲げずにずっと話していけばいいと思う。
それができるだけの肝が座った人間が面白い人なんだなと思った。
そういった人間になるためにはこれからもスベることを恐れずに生きていきたい。
スベった分だけ面白いことが言えるようになるはずだ。
ツッコミありきのパスとしてのボケではなく、パスされた話題に対するシュートのボケが一番好ましい。
万人受けする面白さより自分が思う面白さを追求していきたい。
いつか自分と面白いと思えるものの価値観が近い人に会ってみたい。
その時までにどこまで肝の座った人間になれるだろうか