善悪のクズ
今となっては友人ではない男と都心を歩いた。
適当に世間話でもしながらローソンでコーヒーを買った。
コンビニのコーヒーならファミリーマートが1番いいという持論はさらに固まった。
話題はセンター試験直前の電車内ての痴漢行為についてになったところで、以前から感じていた彼の良心の欠如が明らかになった。
彼は痴漢行為に反対することは偽善だと言った。
自分の利益を追求するにあたって他人に同情することは無駄なことと言った。
ボランティアも子供を産んで育てることも自己満足だとも言った。自分が得をするなら他人がどれだけ傷付こうと構わないそうだ。
感情のまえに相手に反論する前に少し考えてみた。
彼が慈善行為が偽善だと言うことは正しいと思った。なんとなく生きていると気づきにくいかもしれないが、電車で老人に席に譲るのも完全に偽善行為で自己満足なのだ。それは揺るぎないことである。
感情だけで考えるよりは偽善を俄然と思えるだけ彼はマシなのかとほんの少しだけ思ってやった。
自分が良いと思っていたことが偽善であったことに気づくと、何が本当に善いことかわからなくなる。
善いことを突き詰めていこうとはどうしても思えない。自分より貧しい人も富んでる人もいる世の中だ。やっぱり中心には自分がいる。
やっぱり判断基準は自分が決めなければならない。
社会では法律が善悪の基準だが、それを遵守しろと言いたいのではない。
彼とは話が合うところもあるが、良心が欠けていると言う点で面白くない奴だ。
私は今までの育ちに問題があるから良心が欠けてるのかと聞いてみた。
しかし、彼は裕福な家で育ち、どちらかというと甘やかされて育ったと言う。良心の欠如からの悪事は退屈さから行ったものだそうだ。
彼の悪事は自分には止められない。その場しのぎの正義感のようなものはカッコ悪いと思うからだ。
自分は中途半端な立ち位置にいる偽善者だということは分かる。やらない善よりやる偽善。その通りと思う。その偽善が本当に善いことに近いのか。都合の良い時だけやる偽善はタチが悪いことだと思われることが多い。
しかし彼は偽善を悪いことだと履き違えているようだ。
私は決してそうだと思わない。
悪さ(他者を顧みない己の利益だけを追求すること)に全振りするくらいなら中途半端なままでいい。もっと他に面白いことがあるのだから。
なにより裕福な環境で育って親から多額のお小遣いを貰ってるような甘ちゃんが、同情心を捨てることが自分の利益になるというようなことを言っていることはなによりもカッコよくない。恵まれた環境で多くの選択肢の中からどうしてその考えに至ったのかが疑問だ。
たいした苦労も不自由もしていないくせに法を犯してどうして粋がるのだろうか。
何も善行の心理を追求するべきだと言っているわけではない。
少なくとも私たち日本人は諸外国に比べて恵まれているのだから、ある程度の良心と好奇心だけで楽しく生きていくことができると思う。
一生懸命優しい人になりたいと思い続ける。
その意思が大事なんだよな。
甲本ヒロトの言葉を思い出した。
なりたいと思える自分になれなかったとしても、なろうとするだけでもいいじゃないか。
彼が友人から危険人物に変わった出来事だ。
ある程度の付き合いを辞めるわけではないが、挙動には今までより注意しなければならない。
彼のことだから間違いなく将来警察にお世話になることだろう。その方が世の中のためにもなる。
周りの人間にもやっぱり期待しすぎない方がいい。
詳しくは書けないが、前から彼は良心が欠けてるのではないかと疑わしい行動をとっていることがあった。
けれども、なんとなく流石にそんなことはないだろうと自分勝手に思ってた。
今回は彼に対する衝撃的な失望はあったものの、良い教訓にもなった。